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私はこの旅行を経て何を得たか。今、率直に「気を遣わない」「遠慮しない」人になっている~裏修学旅行2017夏

2019/03/27 8:15 に onishi hayao が投稿   [ 2019/03/27 8:18 に更新しました ]

30歳男性、都立高校教師の彼は、息が詰まるような職場と生徒たちの雰囲気を開放したくて合同裏修学旅行2017夏をやろうと言い出し、実際に参加してくれました。

そんな彼の洗練された語り口の、まさにアド部体験の「独白」を、少し長いですが是非読んでください。ここでいう主催者とは、たかしくんのことです。

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何事も客観的に見てしまう癖があるので、まずはその癖のままに今回の裏修学旅行をまとめて見ようと思う。
この旅行は日本人の大好きな、あらゆることをコーディネートしてもらうパック旅行とも、気心知れた仲間と気ままにワイワイガヤガヤぶらり旅とも違った。
自分が過ごしたいように過ごせる、「自由」がこの旅の中にはあった。しかし、あるところでは主催者こだわりの枠が設けられていた。参加者はそこで何かしらせねばならない状況に立たされる。参加者に受け身の姿勢はほとんど許されない。多くは何らかの発言を求められたり、普段やったこともないことをさせられたりする。それが「ミーティング」であり、「ワークショップ」である。これらは、ただ雑談するというものではなく、主催者のファシリテーションによって話のテーマが決められたり、ワークが進められる。そして、この時間がこの旅で最も重要な時間であると主催者は考えているようだ。旅の中ではこのミーティングやワークにどのような意図があるかは説明されない。しかも、ミーティングは突然始まったりする。海から上がって一休みしようかというときや、昼食を食べて満腹感を味わっているときのちょっとした時間に。共通していたのは「車座」。私は4日間参加したが、その間ミーティングは計7回程あった。必ず全員に発言の機会がある。このような時間を何度も重ねていく事で自分の内側をアウトプットして、どこかに置いてきてしまった「自己を表現する力」を再び取り戻すことができるのかもしれない。そして、知らないうちにその人を変えしまう効果がこの旅にはあるのかもしれない。
面白いのはこれらのミーティングが主催者の掌の上でなされている訳ではないということ。参加者一人ひとりの個性が発揮されることで、場がつくられていた。主催者以外がファシリテートすることもあれば、参加者自らミーティングを開くこともあった。むしろ、この旅の中で起こることすべてを一人ひとりが自分なりに意味付けすることでこの裏修学旅行が完成していくのだろう。
ワークショップやミーティングは世界中で行われていて、中身については物珍しいものではないかもしれない。しかし、この旅でのそれは、そこにしかない「空間」と「人」を意識させる何かがあったと思う。
同じことを無機質な箱の中でやっていたらどうだったろうか。数時間限定で二度と会わない人たちとやっていたらどうだったろうか。そんなことを考えている。
この旅の絶妙に良かったところは、ただの思い出づくりではなく、リフレッシュのためだけでもない、空間と人がコラボレーションしてこれまでになかった何かを「感じる」ことができたことだと思う。残念ながら言葉にして伝えるのは難しい。なぜなら、このような旅は多くの人がした事がないからだ。旅の目的や主旨も説明しがたい。旅の目的が無いようで、実はある。でも、言語化したら陳腐化される。主催者はそれを十分分かってコーディネートしていると思う。最後のミーティングにラストまでいられなかったのは非常に残念であるが、この旅を通して「人が成長する場」というものが私には見えた気がする。それを踏まえて、今後私がどういった実践をしていけば良いか、考えていこうと思う。

さて、感じたことをもう少し主観を入れて。まず、今回、キャンピングカーという非常に特殊な環境の中でしかも7人という定員ギリギリの中で(自分が主催者であれば間違いなくやらない)移動から寝泊りまであらゆる行程を共にしたこと、これは後にも先にも今回限りだろう。朝からめちゃくちゃ青くて綺麗な海で泳ぎ、珊瑚礁に生きる魚たちを見て、ハンモックで夜空を見上げながら寝、釣った魚を食べ、日陰で風にあたりながら語らい、マングローブの中を散策し、雪塩ソフトを食らい、高さ1mちょっと広さ二畳程の空間に7人で車座で語らい、同じ空間に三人で雑魚寝をし、波止場から飛び込み、現地の中学生と語らい、ビーチで花火をし、月明かりの下で語らい、汗だくになりながら爆睡し、超美味のマンゴーを貪った。

キャンピングカーに乗ったときの初めの印象は「狭っ!」である。印象ではなく、実際狭い。誰がどう見ても狭い。しかし、主催者は私が合流して早々にこの狭い空間に6人(当時)を車座に座らせて、何事も無かったようにミーティングを始めた。不安しか無かった。先に来ていたメンバーも既に慣れてかこれについては何も言及せず。自分も「そう言うものなのか」と受け入れざるを得なかった。これも主催者の意図に含まれていると考えたりもした。
この旅はとにかく自分から主張しないといけなかった。「〜に行きたい」「〜が食べたい」「寝たい」「そこ通りたい」
遠慮など無用。というか遠慮などしていたら自分が損をする。なぜなら主催者の遠慮のなさが日本の平均レベルから尋常ではないほど逸脱しているからだ。ある朝は危うく朝食を食べ損なうところだった。
考えてみれば、この旅の間、いつもの感覚で仲間に「気を遣う」ということもあまり無かったように思う。他者に気を遣うということで、自分も無意識に「気遣ってもらえる」と思っているのかもしれない。すると、自ずと受け身な人間の姿勢が出来上がっていく。これがいわゆる平均的「日本人」なのかもしれない。
たった4日間で「遠慮しない」という感覚が鍛えられた。この無遠慮な主催者と共に過ごすだけでこれだけの効果があるわけだ。だって黙ってたら全部もってかれちゃうもの。遠慮しなくなり、気を遣わなくなると自ずと「自分の主張」が出来るようになってくるのだ。
こうして文章でまとめていくうちに分かってきた。気付いてしまったぞ。この旅のもう一つの凄いところだ。この旅でかなり自己肯定感を高めることが出来る。自己肯定感200%の主催者はかなり貴重な逸材だ。この人、ただの金にうるさい外科医ではないぞ。
そう考えると、最終日のマンゴー争奪は実はこの旅を非常によく特徴づけた、象徴的な出来事だったかもしれない。美味しく熟したマンゴーをみんな食べたいと思った。そして、遠慮など微塵もなくみんなが貪り食べた。
これを人生に置き換えてみようではないか。「最高の人生を送りたい」とみんなが思い、遠慮など微塵もなくみんなが最高の人生を貪り送る。あのマンゴーにはそんな意味があったのか。

さて、かく言う私はこの旅行を経て何を得たか。今、率直に「気を遣わない」「遠慮しない」人になっている気がする。簡単に「すいません」とか謝ったりしなくなっている。いや、まだまだ分からないが、少なくとも以前より人の目が気にならなくなっていることは確かだ。
何なんだこの旅行は。すごいぞ。

日本人の気の使い方はどこか病的なところがある。自分を犠牲にして、相手のことを考えねばならないと思い込まされている。そのような人の集まりだから、全体的に陰湿で歪んだコミュニティになるのかもしれない。正直、遠慮ばかりしているコミュニティでは、人は成長しない。なぜなら、遠慮すれば、気を使えれば生きていけると勘違いしてしまうからだ。遠慮など皆無のコミュニティでは、みんなが遠慮しないから、自分から主張しないと生きていけない。当然、そのような中で生きていけば人の成長も違ってくるだろう。
もちろん、相手を思いやることは大切なことだが、その前に自分の人生をどうしたいのか。人のことを気にしている間にも自分の生きていられる時間は消費されていく。私は何て大事なことに気付いてしまったのだろう。

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どうでしたか、皆さん?私小説のような迫力のある表現に、読んでるこちらが元気になってきそうです。そんな体験をしてみたくなった方は、是非アド部にお問い合わせください。
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